子どもが育つ魔法の言葉
今日は少しマジメに(笑)。
昼の休憩中につけていたTVから皇太子が朗読された詩が聞こえてきた。『子どもが育つ魔法の言葉(ドロシー・ロー ノルト著)』からの引用で冒頭に書かれている詩の部分であった。
- けなされて育つと、子どもは、人をけなすようになる
- とげとげした家庭で育つと、子どもは、乱暴になる
- 「かわいそうな子だ」と言って育てると、子どもは、みじめな気持ちになる
- 子どもを馬鹿にすると、引っ込み思案な子になる
- 親が他人を羨んでばかりいると、子どもは人を羨むようになる
- 叱りつけてばかりいると、子どもは「自分は悪い子なんだ」と思ってしまう
- 励ましてあげれば、子どもは自信を持つようになる
- 広い心で接すれば、キレる子どもにはならない
- 誉めてあげれば、子どもは、明るい子に育つ
- 愛してあげれば、子どもは、人を愛することを学ぶ
- 認めてあげれば、子どもは、自分が好きになる
- 見つめてあげれば、子どもは、頑張り屋になる
- 分かち合うことを教えれば、子どもは、思いやりを学ぶ
- 親が正直であれば、子どもは、正直であることの大切さを知る
- 子どもに公平であれば、子どもは、正義感のある子に育つ
- やさしく、思いやりをもって育てれば、子どもは、やさしい子に育つ
- 守ってあげれば、子どもは、強い子に育つ
- 和気あいあいとした家庭で育てば、子どもは、この世の中はいいところだと思えるようになる
半世紀も前の詩であるが、とても深い意味を感じた。
所謂子供は親の鏡であるということ。子供はまず親と一緒に生活するものであるから、良い点悪い点を見ながら育っていくものだと思う。乳児~幼児期は良い悪いの判断などできるはずもなく、ただ興味本位で行動を起こす。無論それが親がやっていることであれば更に興味を示すだろう。それに対して親が「良い・悪い」を導いてあげることで幼少期の精神的な成長を重ねていくものだと思う。まさに子は親の鏡ということで良いも悪いも親を見て育つということだろう。
人の親となってからもうじき4年が経とうとしているが、私も嫁も含めて完全な親なんて存在しないだろうし、こうした方がいい、ああした方がいいと聞いても、やはり感情的に怒ってしまったりという事も当然あるだろう。子を持つ親の方なら誰もが思う事だと思う。そうしてしまった時にこういった本を読んで、一度リラックスして気分新たに子供に向き合いましょう、という事であろう。勿論それはそれでよい事である。
でも本当に親がしっかりいていなければ子供はちゃんと育たないのであろうか。なんとなく釈然としない気持ちが私にはあった。
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今日何気なく拝見したあるブログのコメントに目がとまった。http://blog.goo.ne.jp/ak_penn の「親は子にとって反面教師になることもある -皇太子が朗読した詩-」の内容だ。ここで書かれていた内容でなるほどと思わせる文があった。
1.親がむちゃくちゃであってもそれを見て育つ子供が全て酷い子供に育つだろうか?
確かに親がむちゃくちゃであったとしても(むちゃくちゃの定義は色々だが)子供が同じようになるとは限らないし反面教師として、絶対そんな風にならないと思える子供がいてもおかしくないだろう。的を得た指摘である。
そういう意味では「反面教師」として捉えてくれる考えを子供自身がちゃんと持ってくれるかどうか?に焦点が移ってくるのではないだろうか。それを子供はどのように考えていくのかは本人が自然と思い気付くものなんだと思う。私自身10代後半に親の離婚を経験しているのだが、今家庭を持っている自分はわが子を見て絶対にそんなことを経験させたくないと思う。それは子を持つ親なら皆思うことではないだろうか。
私の友人で大変厳しい親父に育てられた者がいるのだが、話を聞いてると通常の思考では到底考えられないような理由(あえてここでは書かないが)で殴られたり池に放り込まれたりしていたそうだ。やはりそんな親父を嫌いだったらしく、それが反面教師となったと今でも私に話しをしたりする。その友人は相手の気持ちをとてもよく考え行動できる心優しい人間である。
私は立派な人間だとは思わないが、一応犯罪に染まることなくまっとうな人生を歩んでいると思うしその友人もしかりだ。決して親の影響で悪い状況を生み出したとは言えない。
2.大人社会を批判せず受け入れていく子供の方が怖いのでは?
今の子供(特に若者)は大人がやっている事を受け入れているというよりも、「冷めている」「自分には関係ない」という事が当てはまるのかもしれない。だから行動も起こさなければ時代の流れに逆らわずただ身を委ねているだけという風に見える(勿論全ての若者がそうではないというのは言うまでもないが)。
そうでなければ今の世の中、60年代のような学生運動が各地で起こっていてもおかしくないからである。しかしそういった動きは殆ど見られない。政治の世界ではカネ絡みの酷い話ばかりで、国民を「食い物」にしているにも関わらずこれからの次代を担う若者たちはあまりにも静かで社会に対して諦めているようにしかみえないのである。こういう若者を生み出したのははたして家庭内の親だけの責任なんだろうか?社会そのものに根本的な問題があるように思えてならない。
3.教育者がこの詩を使って、「全ては親しだい」などと脅迫的な押し付けをし始めたら
私も最初にこの詩を見たとき、自分も我が子に対してイラついたり怒ってしまったりするときに参考になるかと思ったのだが、勿論参考にはなると思うしこの本を読む事によって心が穏やかになるのであれば素晴らしいことだ。ただ子供は親のロボットではないし、いずれ自我意識を持って成長していくものだと思う。私達が色々な叱咤激励を行っていきながら後は子供たちの意識次第なのである。教育者達が「全ては親次第」なんて思っているのだとしたら観点がずれてる以外の何者でもない。そんなことだから小さい頃から塾や習い事などを「強制的」に入れさせてしまう社会を生んでしまっているのだ。親が「そう考え」「そうさせてしまう」社会には問題は無いのだろうか?
しかし関係者の気持ちも分からなくもない。犯罪の低年齢化が進み家庭内環境に踏み込みたいと思っているのかもしれない。決め付けは良くないが、犯罪に走ってしまった未成年者は何かしらのターニングポイントとなる出来事が必ず発生していると思える。それが家庭内環境であったり家庭外であったりするのだが、その時の子供の変化を一番身近にいる親が敏感に感じ取ってやり、それを親がちゃんと反応してあげなければいけない。それを行った上で子供がどう考えてくれるかを見守ってやる。これこそが親がしてやれる一番大事なことではないだろうか?それが出来ていないのに無駄な知識や能力ばかり身をつけたところでどうやって精神的に成長ができるのだろう。
私は我が子には社会で生きていく上で最低限必要な教育以上を押し付けるつもりは毛頭無いし、習い事などを強制したりするつもりもない。自主的にやりたいと思える事が出てきた・興味があるモノが出てきた時点で初めてそれを考えれば良いと思う。塾に行きたい、高校・大学に進学したいと「本人」が言うのであれば理由をちゃんと聞いた上で納得できれば行かせるつもりだ。子供が塾や習い事に「行っている」のか「行かされている」のかでは全然意味合いが違う。
成人するまでに色々な壁が何度も立ちはだかると思うが、その時に親も含めた周りの人間がどれだけ本気で接してあげることが出来るかでその後の子供たちの人生が変わっていくような気がしてならない。そういう意味での子供に対する親(オトナ)の立場は重要である。
しかし色々な事を感じ取り、考え、教えられ、それを自分に生かしていくという行動そのものは子供(若者)本人にかかっているものである。
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最後に皇太子はこの社会に生きている全てのオトナ・子供たちに向けたメッセージとして読み上げたのだと思う。特に皇太子妃の件を考えると深い意味を感じさせる。
家庭=会社、親=上司など、子ども=社員 などに置き換えて詩を見てもおもしろい(少なくとも私は色々な意味で納得(苦笑))。
※思いのまま一気に書き綴ったので、文章・発言が意味不明、論点がおかしいなどあるかもしれませんがご了承くださいm(_ _)m